和漢医薬学の基礎と臨床の橋渡しを推進する

和漢医薬学会

第40回 和漢医薬学会学術大会「市民公開講座」

2023年8月30日 カテゴリー: 市民公開講座

開催日:2023年8月26日 (土)
場所:富山国際会議場2F
講師
服部 征雄 [富山大学名誉教授]

華岡青洲と越中の弟子  舘玄龍、石川良逸、西野大珉

講師 服部 征雄
[富山大学名誉教授]
要旨 華岡青洲は有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』で私たちに最も良く知られた江戸時代末期の外科医である。

彼は『三国志』に記載された伝説上の華佗に習い全身麻酔薬を用いた乳癌手術に世界で最初に成功した。華佗は麻沸散で麻酔を行ったとされるが麻沸散の処方は伝わらず、青洲は独自にチョウセンアサガオ(曼荼羅華)とトリカブト(烏頭)を主成分とする全身麻酔薬の開発に成功し、この処方を麻沸散(通仙散)/湯と名付けた。

この薬物を用いて1800年10月13日、乳癌患者藍屋かんの乳癌の摘出手術を行った。この輝かしい成功は日本の津々浦々に伝わり、青洲の門下に弟子入りする学徒が増え、彼が住む紀州平山の医学塾「春林軒」は若い医師、著名な医師が集まり医学のメッカとなった。

この青洲の名声にひかれ越中からも18名の春林軒入門者が記録されている。特に、舘玄龍(1795―1859)は勝れた弟子で、その功績は富山市下村の巨大な顕彰碑(北洋先生の碑)に記録されている。

また西野大珉は春林軒の塾長も務めた弟子で、青洲13回忌には分骨を許され富山市梅沢町海岸寺 墓地内に「青洲華岡の墓」を建立した。婿養子に彦祐を迎え嘉永三年(1850)に華岡青洲の元へ入門させた。帰郷後了珉時亮と名乗り医業を継いだ。義父の没後に藩医となった。了珉は慶応四年(1868)五月には北越へ四番隊で出陣し、廃藩後は外科・産科を専門としたが、明治十二年(1879)九月七日コレラで没した。

文政4年(1821)には射水郡小白石村の石川良元(良逸 1792─1849)が春林軒に入門している、彼の末裔には石川日出鶴丸、旭丸など著名な医師が輩出している。特に日出鶴丸は戦後GHQが鍼灸の非科学性を根拠に治療を認めなかったとき、科学的根拠を示しGHQに鍼灸治療を認めさせた功績は大きい。

今回の市民講座では華岡青洲に関する最近の評価と越中の弟子達が繰り広げた医療への貢献の一端を紹介し、華岡医学が麻沸散の処方を公開せず、家族的秘密主義を通したとの誤謬を解くものとした。また、富山県民にはここ越中の地が和州(和歌山)と医学上案外強い繋がりがあったことを示した。

分祀された華岡⻘洲の墓(海岸寺境内)
下村の田野にたたずむ北洋先生(舘玄龍)の碑
北洋先生顕彰碑 総数1500余字。創建より160年以上をへているが、極めて鮮明。
舘玄龍の墓(右端) 戒名玄龍院願海⺠穏居士。
海岸寺⻄野家墓地内にある⻘洲の墓 この墓の右側には⻄野大珉、左側には養子了珉とその息子の大庵の戒名が彫られている。了珉と大庵は明治12年の北陸地方を襲ったコレラにより殉職したものと思われる。
舘玄龍が使用したとされる籠(下村⺠族資料館)
補足資料